2014年09月15日

ディアナ号の遭難とヘダ号

2004年1月1日沼津朝日さんの記事に戸田のご紹介をTOPページにしていただいてます。

今回は、ディアナ号の遭難からヘダ号造船についての記事の報告です。

深海魚漁 トロール漁
写真は沼津市のホームページよりお借りしました。

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 安政元年(1854年)、ロシア軍艦フレガット・ディアナ号が、日露通商条約締結のため下田港に来航。碇泊中、安静の大地震による津波に襲われ、暗礁に乗り上げて艦底などを損傷。

 艦長のプチャーチン提督は幕府に上申し、戸田港での修理を許され、ディアナ号を下田カら戸田港に回航。途中、船は厳しい季節風のため戸田に入港できず、富士海岸沖に流され沈没した。

 なぜ戸田港が修理上に選ばれたのか。当時、日本に開国を求めていたアメリカとイギリスの艦船に見つからないようしたとの説がある。

 古文書によると、「修繕のため戸田港へ回航する際、晴天なるも西風烈しく吹き、下田奉行水野筑後守戸田村へ出張し、援船を出すように命じた。駿豆沿岸には沼津の城主水野出羽守の救助命令により援船おおよそ数百隻に及んだ。然るに西風なお烈しく、何分にも戸田港へ引き寄せることはできず、艦底の損傷により浸水甚だしく、等港を隔てること五里(約19.6キロ)の宮島(富士川河口東側、現在の田子の浦三十四軒屋)沖に沈没した」とある。

 五百余人の乗組員は援助船に移り宮島海岸に上陸し、全員徒歩で入港予定の戸田村に向かったという。異人を始めてみた沼津に人々の驚きは想像に難くない。

 到着後、提督ら士官は村内の宝泉寺と本善寺に、乗組員は新築長屋四棟を宿泊先とした。

 船を失ったプチャーチン提督は帰還船の製造を幕府に願い出、ロシア人の設計による全長24.6m、幅7m、百トン、50人乗り、二本マストのスクーナ型洋式帆船の建造を計画。

 乗組員が帰る大型船を本国に取りに行くための船は、戸田の造船大工上田寅吉を頭とする伊豆周辺から集められた数百人の職工の手によって百日ほどで進水。提督は村民への感謝を込め「ヘダ号」と命名した。建造の地、牛の洞には記念碑が建つ。

 安政二年(1885年)、提督ほか四十七人はヘダ号で帰港の途に着いたが、二千トンのディアナ号の乗組員の残りの450余名は二班に分かれ、アメリカ商船の協力を経て祖国の地を踏んだという。

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戸田の造船郷土資料館には、この当時の資料がたくさん展示されています。

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沼津朝日2004年1月1日記事





Posted by 戸田観光協会 at 11:34│Comments(0)
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