IHIの基礎から造船日本へ
2004年1月1日沼津朝日さんの記事に戸田のご紹介をTOPページにしていただいてます。
今回は、「IHIの基礎から造船日本へ」についての記事の報告です。
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IHIの基礎から造船日本へ
不要となったヘダ号は
ロシアの手で船体と泉質を装飾され、謝意として大砲五十二門を添えて幕府に寄贈された。その後明治15年(1882年)にロシア艦船が戸田港を訪れ、交流が始まった。
また、1887年、プチャーチンの娘のオリガ・プチャーチナは戸田を訪れ、造船ご用係を勤めて提督の世話をした松城家へ宿泊するなどして交流。彼女から
贈られた精巧な細工を施したイヤリングは、造船郷土資料博物館に展示されている。
松城家は代々回船業を営み、和風コロニアルノタイルの邸宅には鏝絵の名工・入江長八の作品が多数あり、建築彫刻・絵画においても優れているため、
国の有形指定文化財に指定されている。
このヘダ号建造で習得した技術を基に造られた同型船は、君沢軍戸田村の名にちなみ
「君沢型ヘダ号」と名付けられ、幕府の軍艦として海の防衛に活躍した。
この時陣頭指揮した戸田村大中島生まれの
上田寅吉らが石川島造船所、後の石川播磨重工業(IHI)の礎を築き、「造船日本」へつながった。村内に顕彰碑が立つ。
戸田号の建造時に使われた設計図や道具、ロシア人が持っていた双眼鏡やコンパス、スプーン、フォークなどは、1969年、1969年御浜に建てられた
戸田造船郷土博物館に展示されている。
同博物館建設時、当時共産主義国家だったソ連との交流を疑問視する声が県議会にあったという。
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この新聞記事によると、戸田は日本造船に大きな役割を果たしたと言っているようだ。
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